立川がじらオフィシャルブログ(令和)

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東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』と死んで名が残ることへの抵抗について

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八月二十八日から九月四日まで映像が無料公開されていた舞台の感想その他を書きました。

東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』は令和二年の一月に上演されて、この頃、外国で発生した新型ウイルスのことは情報として与えられていたはずですが、国内で心配している人はほとんどいなかったような感覚だったと思います。時代が変わる前の最後の観劇だったかもしれません。このほど全編の映像公開という僥倖に巡り合い再びの観劇がかないました。

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この物語にはとても奇妙な前提があって、しじみさん演じるヒロインのミショーという名の女の子は死ぬことが決まっている。両親とともにエンディングをプランニングするところから台本は書き始められただろうし、死ぬかどうかでハラハラさせることはしない。死ぬ。織田信長だと本能寺で焼け死ぬことは決まっているけれど、ミショーの最期はどうなるかわからない。とにかく死ぬ。
(この点に関して萩田頌豊与氏は、極力ヒロインが死ぬことでエモーショナルに湧き上がる感動を抑えたかったのだとオーディオコメンタリーで語っています。彼女の死は、ラストシーンまでに明確に表現されます)

ミショーの名前が美笑と書くことはパンフレットに役名が記してあるために劇場の客席に座ればわかるのですが、この名前は呼びかけるたびにまるで外国語のように響いてひとつの違和感となります。
名前/呼び名にまとわりつく違和感は、この物語を通じて幾度も呼び起こされます。
例えば、新たな登場人物が現れると、まず既知の人物がこの新参者の名を紹介し、その後にかの人物は自ら名乗るという少々回りくどいような他己から自己へいたる紹介の形が出てきます。確かに名前とは、そのようにして誰かと結びつけられるものであり、名乗りを保証するものとして名刺まで用意されています。

また9歳の瀬在真一(タカギ道産馬)は母親・典子(矢野杏子)のことを常に“母(はは)”と呼びますが、必要に応じて適宜「自分を産んだ女」と言い換えたりします。後半でぐんぴぃのことを説明するシーンもそうですが、真一にとって、ひとつの名はなく、そのつど辞書を読み上げているかのようです。この奇妙さは、名前とその指示する対象の結びつきの不確かさを不気味に浮かび上がらせます。

 

ここで名前というものについて忘れがちな前提を確認しなくてはなりません。それは、人は誰も自分の名前を付けることができないということです。
名字にしろファーストネームにしろ、名前は誰かが決めるもので、人は決して自分が欲した名前で呼ばれることはないのです。

私やキミ、あなた。これらは代名詞で、あなたという個体を離れても必ず何かを指示することできる。呼びかけるときに用いられる立場や役職もまた、代名詞であります。

あなたの名前は、あなたのことか。

そうではあるが、これは考えるほどに違ってくる。
あなたに付けられた名前は、あなた自身ではない。それ自体もともとあった出来合いのコトバで、あなたでなく他人に与えられてもよかったものです。同名の人物は何人もいることでしょう。例えば、ある女性が新幹線でたまたま隣り合った女性の名が自分と同じ“ナナ”だとわかった場合、何かしら縁を感じてしまうようなこともあるはずです。もちろん彼女たちは他人です。偶然性がそこにあります。

 

名前とは単に名ばかりのもの、“あの人”や“あれ”と同じく代名詞ではないでしょうか。だから、名前があっては邪魔で“その人”に近づけないのかもしれない。

かの椎名林檎も『罪と罰』で「あたしの名前をちゃんと呼んで」のあとに「身体を触って」と続けなくてはいけなかったのは、名前なんてたかが名前じゃねえかってことだからです。かのアン・ルイスの『グッド・バイ・マイ・ラブ』も忘れないのは「あなたの名前」でここが余韻を残すのですが、くちづけのときの話です。そのぬくもりに用があったわけです。このぬくもりに、名前はつけられません。

 

美笑の親友である楓(hocoten)は、美笑を愛するあまり彼女に成り代わって死のうとする。そのために楓は美笑を名乗る。代わりの名としての美笑になろうとする。名前はそもそも誰のものでもないゆえ、楓の意図は成功しかけます。
(“楓”という名は、萩田氏が大ファンのスピッツの名曲『楓』からとっているんじゃないかと思うのですが、それならば楓は「君の声を抱いて歩いていく」ことになる。生き残る側の人間です)
楓は、ラストまでに自らこの葛藤を乗り越えて誰よりも力強い声を出します。

篠崎(ぐんぴぃ)は、葬儀施設で火葬を担当する職員でありながら死体愛好家である。お気に入りの死体をとっかえひっかえで交際する。死者をモノとして自分の意のままに扱うような唯物的な思想の持ち主かと思いきや、登場人物中で実は最も死者の人格というものを想定している、宗教的情熱のようなものを持つ人物として現れます。死体そのものは、名前と分かたれて朽ちていく。残る名に対して消える身体を、無条件に愛でる彼岸の人です。劇中ではそういう描かれ方をしていたような気がします。

 

どうして名前だけが残るのか。思い出も、みんな死んでしまえばもう残らない。世界中の人間から忘れ去られようと、そんなこととはまったく関係なく名前は残る。名前と簡単なデータは、国家の保証の限りで残るものです。生きた人の、名前とそこから零れ落ちて消えてしまうものを、いつまでも繋ぎとめておきたい。それは不可能で避けられないものでありながら、涙でなく笑いで対峙しようとする。
そうして『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』の登場人物たちの、死者との約束を果たすようなラストダンスが胸に迫ってきます。

 

俳優陣が思い返すたびに素晴らしく、三谷幸喜作品のキャスティングだったらどうかななんて考えてしまいます。

栗田さんと成瀬さんの兄弟は役所広司中井貴一だな、とか。葬儀場の直木さんは佐藤浩市で青柳さんは松たか子がやるんだろうな、とか。矢野さんの役どころは、これは樹木希林さんがやるようなポジションだぞ。そうなると息子のタカギさんの役は難しいぞ、これはもうロバート秋山さんだな、とか。もちろん現行のキャストが素晴らしいので余計なのですが、皆さんが名優にみえたのです。

最後に、最後のBGMがかかるとき、ラストダンスの直前に、空間を花で満たしていくとき、その葬儀の準備が進行するにつれて、ラストダンスに向かって盛り上がっていくところ。絶頂の前、ここで最も感情が昂って、客席がまだ見ぬラストダンスを了解したのでした。

オーディオコメンタリーでしじみさんが、初日終演後に萩田氏と「今日が千秋楽でもいいね」と話したというエピソードを口にされていましたが、それはそれは素敵な劇だと思いました。